片岡、100年越しの故郷へ。

Return to My roots, from Hokkaido.

【弔電】誰にも知られずに旅立つ、Nさんに。


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【今日だけ、残しておきます】
大切な人へ、何も言えずにさよならしてしまう前に。

ありったけの感謝を、残してください。

 

 

今日はこんな乱文でごめんなさい。今回は、完全に個人的なことを描きます。

 

皆さんは、大事な人との死に立ち会えなかったことはありますか。

先日、死に目に会うことのなかった後悔の念を、持ってしまいました。

 

 

 

本来、年末に帰って顔を合わせるべきだったのでしょうが、

「あの人は強い人だ。僕が帰るまでは生き抜いてくれるはずだ」と。

 

 

こうした無念は、どうしても残ってしまうものです。たとえそれが、血縁のない人であったとしても。

 

今日はこの一文を書き記して、誰の為に生きているのか?本当に大事な人は誰だったか?ちょっと考える機会にしてもらえたら幸いです。

 

言いたいことはたった一つ、

会いたい人には、"名残おしい思い"を一つすら残すことなく会いなさい

 

 

だけです。今日また、元気でお過ごしください。終

 

 

 

 

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弔辞 Nさんへ。

 

今日でNさんは骸だけとなって、この大地から去ってしまうのですね。もう涙も、寂情の念も、すべて昨日に置いてきてしまいました。此の世を去る1年前、Nさんと酒を飲んだ写真が残っていました。その時も、嬉々としてビールを飲み、「北の勝」「一ノ倉」を飲んでいましたね。

 

僕の知る限り、Nさんは最後まで「酒仙」その者のお姿でした。

ですが、この現世ではもう酒仙様と顔を合わせることはないのですね。

 

僕はそう、事実と向き合わされることで、Nさんの死という事実と向き合い、

ふたたび「死の世界」に引き込まれるわけです

 

でも、初めて死という事実に向き合った6年前と変化したことがあります。「死は別に、招待のない、不気味・魑魅魍魎とした存在ではない」ということです。

なぜなら、死は平等に人間に与えられた宿命なのだから。それからは「死ぬ」という一瞬の現象に対しては怖さを抱くことは無くなりました。

 

しかし、どうしても「死んだ」という事実に対しては、怖さを抱いてしまいます。

「死」という事実が起こることで、その人間はどういう言われをされるのだろう?誰かの力となれたのだろうか?

 

何者か見えない「本懐」を見ることないまま死ぬのだけは、とても恐いのです。

 

 

 死とは、誰にでも恐るべきものとして身近にあるものです。それでおいて、日常を生きているとどうしても死を忘れてしまう。

 誰もが「健康でいられることは大事なことであり、自分らしく生き生きとできることって大事だよね」と思っていても、いつの間にかタバコは吸うわ酒をかっ喰らうわ、クスリは採ってしまうわけで。

一瞬の快楽と、享楽を追い求める。そうして寿命を縮めてしまうパラドックス

 

怖いですねぇ、恐ろしいですねぇ。

 

そんな毒を喰らってもなお、自分らしく生きようと酒を飲み、煙草を吸い、一瞬に生きたあなた。血縁のない、ほんの些細な縁だけで、愛情を注いでくれたNさん。

そんな退廃的な、軽蔑してしまいそうな行動に、どこか美学を感じてしまうのも人間の性でしょう。

 

そうして軽蔑してしまうような行動を取ってもなお、選ばれた人間の中には「酒仙」「芸術家」として記録として永遠にその名前が残り続ける人々も居るわけです。

 

ですが、あなたは選ばれることなく、ごくわずかな人々の記憶の中だけに生き続けることとなりました。やがてあなたの歴史も、いつかは消え去ってしまうのでしょう。

 

あなたが発ってもなお時代は進み続けます。

 

 

ですが、あなたが残したほんのささやかな血流は、僕の中に残していったのでした。

そんな血潮を僕に宿しただけでも、Nさんは僕にとって掛け替えのないたった一人の大人物なのでした。

 

 

 

僕にとっての「酒仙」として生きたあなた。Nさんへ。10年前に絶とうとしていた自分が、こうして生きられるのはNさんのおかげです。

70年後の、来世でお会いしましょう。さよなら、さよなら。さようなら。

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